エドヴァルド・ムンクの『叫び』について知っておきたい9つのこと


「ムンクの叫び」として日本国内でも広く、大人から子供にまで知られている作品でしょう。日本では一般的に笑いの種にされることが目立つ印象ですが、実は、死ぬほどの苦しみに直面したときの状況を描いたとされています。世界名画史上、最も誤解の多い作品かもしれません。今回の記事では、その真実に可能な限り迫っていきたいと思います。よろしくお付き合いください。

 

1、ムンクの『叫び』はいつ頃描かれたのでしょうか?

初制作は1893年頃とされています。丁度、ムンクがベルリンに滞在していた時期と重なります。また、同じ絵を何枚も制作しています。少なくとも5点以上を制作したとされています。版画で制作した『叫び』もあります。

何枚も制作した『叫び』ですが、その中に版画で制作されたものがあります。リトグラフ画(1895年)と呼ばれる物がそれです。「リトグラフ」とは石版画のことで、近年では金属版も使われているそうです。他にもパステル画(1893年と1895年に制作)の作品や(「パステル」とは、乾燥した顔料を粉末状して、固めた画材のこと。)、テンペラ画(1910年に制作)の作品もあります。(「テンペラ」とは、水性と油性の成分からなる乳化作用を持つ溶液を固着材とする絵具です。)

 

2、ムンクの『叫び』どこにあるのでしょうか?

最も有名なのは、「オスロ美術館」所蔵の油絵です。他にも、同じオスロ市街の「ムンク美術館」にも2点展示されています。

 

3、この絵はどこの風景が描かれているのでしょうか?

オスロ市街のエーケベルグ地区の丘が舞台となっていると言われています。

 

4、中央の骸骨のような表情をした人物のモデルは?

中央に描かれている苦しみの表情で顔を両手で押さえる人物は、おそらくムンクの人物画で最も多くの人が知っている人物画ですが、このモデルは誰でしょうか? 有力なのは、この作品が描かれた当時、パリの人類史博物館で展示されていた、ペルーのミイラがモデルになっているのではないかという説です。

 

5、何度か盗難に遭っています。

1994年のノルウェーの冬季オリンピック「リレハンメルオリンピック」が開幕した日に、オスロの国立美術館から『叫び』の油彩画が盗難に遭いました。現場には、犯人たちによると思われる「手薄な警備に感謝する」というメモが残されていました。しかし、数ヶ月後には無事に発見されています。

それから10年後の2004年には、今度はムンク美術館から、同じくムンクの名作「マドンナ」とともに「叫び」が盗難に遭っています。こちらは、2年後の2006年に2作品とも発見されています。ただ「叫び」は湿気と擦り傷による損傷が目立ったようで、完全修復できなかったようです。

 

6、この絵にはムンク自作の詩文があります。

絵の方が強烈な印象を残していますが、実はこの作品には、ムンク自身が詩を添えて残しています。

以下、その詩文を引用します。

“ ある夕方、私は道を歩いていた ー 片側には市街と江湾が眼下に拡がっていた。
私は疲れて病んでいたー私は立ち止まって湾越しに向こうをながめた。ー 陽が沈んだ ー 雲が赤く染まり ー 血のようになった。ー
私は自然をつんざく叫びのようなものを感じた。ー 私は叫びを聞いたように思った。ー
私はこの絵を描いた ー 雲を本物の血のように描いた。ー 色が叫んでいた。ー これが生のフリーズの《叫び》の絵になったのだ…”

※『エドヴァルト・ムンク・生のフリーズ[自作を語る画文集]』(鈴木正明・訳 / 八坂書房)より引用。

7、ムンクの叫びは、ムンクの耳から入ってきた自然の叫び?

この作品は一般に「ムンクの叫び」の名で知られていますので、作中に描かれているモデルが叫んでいる姿と勘違いされがちです。実は、叫んでいるのは、周囲の自然だと言うのです。それは、先程、引用しました、ムンク自作の詩文からも分かります。雲が赤くなって、血のようになったとあり、また、色が叫んだと書かれています。おそらく幻聴と幻覚ではないかと言われています。このときムンクはかなりの精神不安定な状態だったとされています。

ちなみに、ちょうど同時期の画家として、ゴッホがいます。ゴッホも精神の病に苦しんでいたと言われています。『叫び』が制作されたときは、既にゴッホは自殺して数年経っていました(ゴッホは1890年に亡くなっています)。ちょうどゴッホが自殺した頃は、ムンク自身はフランスのパリに留学中でした。ゴッホにも強く影響受けていたことでしょう。

ゴッホは、『星月夜』という作品で、精神の不安を表したと言われています。ただ、ゴッホの作品に出てくるのは、特に精神が不安定な時期は、自然の風景のみでした。落ち着いてくると自画像も描いたようですが、豊かな表情はありませんでした。比べて、ムンクの作品には、モデルに描かれている人物の気持ちが身体全体を使い表現されています。直接見る人に訴えかける要素が強いように見えます。その点、ゴッホの場合は作品そのものの芸術性を高める意識が強いように見えます。

現にゴッホの『星月夜』では、葛飾北斎の作品の三遠法を意識したり、三日月や教会を描くことで、キリスト教の宗教画を意識して描いたと言われています。芸術の分かる人向けの作品という言い方になるでしょうか。そういう意味で、ムンクは大衆向けの作品を生み出す先駆者とも言えるでしょうか。

 

この叫びは愛を求める叫び?

この作品は、当時の世界の社会情勢に振り回される市民の気持ちを反映した作品でもあると言えるかもしれません。

この作品が描かれた当時のヨーロッパは緊迫しておりました。1870年にフランスとの戦争で勝利していたドイツ帝国が勢力を拡大し、1882年には、オーストリア=ハンガリー帝国とイタリア王国との間で、三国の軍事同盟を結んでいました。それに対して、フランス(第三共和政)とロシア帝国が同盟を結び、それに対抗します。つまり、第一次世界大戦の前夜とも言える対立の構図がこの当時に出来上がりつつありました。さらに、広大な多民族国家のロシア帝国は、ロマノフ王朝による武力による支配に行き詰まりが生じ、少数民族や農民、低賃金労働者など、多くの反発が目立っていたようです。遂には皇帝アレクサンドル2世が暗殺される事件まで勃発します。後を継いだアレクサンドル3世も命を狙われ、間一髪致命傷は免れたものの、それが元で病死してしまいます。ロシア革命前夜の状況が出来上がっていました。

この時期のムンクは、ドイツのベルリンに数年間滞在しています。また、その前後にはフランスのパリにも留学のためや、短期滞在も経験しています。対抗する国同士を行き来していたのです。ヨーロッパ中に吹き荒れる戦争や革命の波を肌で感じていたことでしょう。しかも、ムンク自身が、前衛的とも言える、社会主義革命よりの芸術家グループとの交流もあったと言われています。ただ、深くは関わらず、傍観者の立場を貫いていた様子でしたが、多少なりとも影響を受けていたと思われます。

また、ムンクは、特に、ロシアの文豪・ドストエフスキーの作品を好んで読んでいたと言われています。ドストエフスキー自身も前衛的な傾向の作家と言われており、社会主義革命を目指すグループに関わったため、一度は政府に逮捕され、処刑される寸前までを経験しています。結局はシベリアに流刑になりましたが、それが元で、精神を病み、幻聴や幻覚で悩まされる統合失調症を患っていたとも言われています。シベリア流刑後は、急進的な社会主義革命よりも、キリスト教に基づく、慈愛に満ちた救済による社会革命を望むようになり、思想の転換があったと言われています。

ムンクが、ドストエフスキーの作品に社会の閉塞感からの変革のための思想を求めた可能性は十分に高いでしょう。
ドストエフスキー作品によく見られるのは、愛と公平に満ちた平和な社会を渇望するけれども、実現及ばずに悩んでいる人物です。ムンク自身も同様に悩んでいたとも考えられます。『叫び』は、それを象徴する作品の一つとも言えるでしょうか。

また、ムンクは幼くして母を結核で亡くしています。さらに青年期に姉も結核で亡くしていますので、強く母性を求めるところがあったと考えられる気がします。

実際、ムンクは、理想的な純愛を求めながら、情愛に左右せざる得なかったエピソードがいくつもあります。ムンク自身が、不倫も含めて、何人もの女性と関係を持っていました。それに対する罪悪感があったと言われいます。それも含め『叫び』という作品につながったと考えられるでしょうか。

しかし、この作品を描いても心は満たされなかった様子で、その後に愛し合った1人の富豪の娘には、嫉妬からでしょうか、命を狙われ、拳銃でムンク自身が怪我をさせられるという事件にまで発展します。

『叫び』は何度も制作されましたが、ムンクの心が洗われることは難しかったようです。その代わり、見る人には多くの共感を呼び、心を洗練されたとの評価も上がっています。